金剛山 生命力(天の門)
1999 · 162×130 cm · キャンバスに韓紙・アクリル
引用
この作品とあわせて見たい資料
- テキスト 評論 1999-09-03 · カン・テソン(美術評論家)
〈肯定、否定、回想の空間〉 — カン・テソン評論 (1999)
韓国の伝統美を求めて、青紗提灯・景福宮など多様な韓国固有の風物を素材として扱っていた申璋湜は、1993年以来、金剛山を主題に制作してきており、今年9月にも表画廊で同じ主題で展示会を開催した。
昨年と今年の二度、金剛山を直に見てくる前まで、彼はやむをえず、いくつかの写真に基づいて金剛山を描かざるをえなかったため、観念的な特性を見せてきた。山の稜線を濃い線で、山の谷を明るい色で代置し、山の形態を単純化したために、様式化された装飾的な側面が際立って見える。今回の展示会でも、彼の独特の表現はそのまま残っているが、表現の様相がいくらか変わっていることが発見される。
作品〈金剛山-生命力(天の門)〉〈金剛山-生命力(天仙台から望む観音連峰)〉〈金剛山-生命力(万物相)〉などにおけるように、光に反射する山の陽地を明るく表現する明暗対比は、以前よりも写実感をより感じさせた。〈金剛山-生命力(万物相)〉は、過去の様式化された側面を盛り込んでいるが、写生に基づいた表現へと新たに変わっていることを見せた。
写実に基づいた様式的な表現の変化は、彼の絵画における「装飾」の意味も変化させる。ここで筆者は「装飾的(decoratif)」という意味を、ラテン語「decere」の語源と比較して考える。Decereは「適合する・似合う」を意味するように、今回の展示会での申璋湜の表現は、単に形態を飾る様式化された装飾ではなく、自然の実相を強調するのにより「適合した装飾」として表現されたと見ることができる。
1989年以後、木版画の仕事を通して、再現された形象の上に果敢に線を引き出すことで、対象を再現した空間と分離させて時間の前後関係を形成し、二つの時点の間の「遅延」関係を作り出した。画面のなかに描かれた風景と、撒かれた線が二つの時点として提示されることで、両者の間の「否定」の意味が強調され、先に描かれた空間を否定することで、最初に提示した意味を自由化させた。
この表現に現れた否定は、否定された空間、すなわち最初に描かれた空間を消さずにそのまま見せることで、否定された以後の事実と以前の事実を共存させ、相互に異質的な特性と無関係であることを強調した。このとき否定は、存在者を説明しようとする限定的な否定(privatio)、すなわち欠性ではなく、対象を制限せず、むしろ自由化させる否定(negatio)である。筆者は、彼の作品において、風景を描く行為を肯定の空間、後ろに線を撒く行為を否定の空間として理解した。
しかし、今回の展示会では、撒かれた線が弱化され、さらには、先に描かれた風景に溶け込んで一体をなしもした。ときには、ある種のフィルターを通して対象を見るような映像を演出しもし、柔らかく弱く撒かれた線は、回想の空間を演出しもした。すなわち、現在ではない空間、現地ではない空間、ここではない「あそこ」、今ではない「あのとき」を提示した。記憶の空間、回想の空間、行けない場所を描く心を盛り込むかのような表現で、彼の「撒かれた線」の意味を変化させたのである。
今後、彼の作品が「否定」へと展開するのか、それとも二つの層位の間の異質性を強調するのか、あるいは今回の展示会で見られるように、両者の間の補充的な線として展開するのか、知る由もないが、線の意味がまたもや変わるだろうと期待する。
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