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テキスト 評論 2012-11-15

〈道の上の修行者、あるいは道を探す人〉 — 崔泰晩評論 (2012)

関連作品 (11)
Exhibition
[展覧会ポスター] 〈三昧〉 ポスター
〈三昧〉
Dates
2012-11-15 — 2012-11-27
Venue
スペース・ソン+(ソウル鍾路区三清路)

要約

美術評論家 崔泰晩が2012年11月のスペース・ソン+ 申璋湜〈三昧 samādhi〉個展の評論として書いた文。作家の仏像絵画の作業を「三昧(三昧)」の概念と「道の上の修行者」のイメージで読み解く。2007年〈内金剛 妙吉祥〉以降に本格化した仏像のモチーフが、2011年の西安~パミール~ガンダーラのシルクロード巡礼を経て、どのように「32相80種好」の礼拝対象ではなく作家本人の「敬虔な畏敬心」の外現へと変貌したかを指摘する。サールナートのグプタ様式、ガンダーラ・マトゥラー様式、慶州 南山・三花嶺の弥勒三尊仏、麦積山石窟などを幅広く媒介に置き、作家が仏像の花崗岩の質感を紙の繊維で表現し、飛天・ろうそくを平面で結合して「再現と表現、立体と平面、具象と抽象」が共存する画面を具現したことを分析する。作家がヴィパッサナー・サティ・サマーディという仏教修行の三段階になぞらえて追求した芸術の道を「希望のアリラン」で締めくくる。

Info
出典
作家ブログ
Author
崔泰晩(美術評論家)

本文

〈道の上の修行者、あるいは道を探す人〉

崔泰晩(美術評論家) · 作家ブログ · 2012-11-15

三昧(三昧)を求めて

2007年に内金剛を訪れた申璋湜は、万瀑洞、普徳庵、表訓寺、長安寺跡など内金剛の美しい山河を表現した風景画とともに、〈内金剛 妙吉祥〉を発表した。北朝鮮が国宝文化遺物第102号に指定したこの妙吉祥(妙吉祥)は、高麗末期に妙吉祥庵を重創した懶翁和尚が刻んだと伝えられるが、高さ40メートルの岩壁に、仏像の高さだけで15メートルに及ぶ壮大な規模を持っており、高麗時代の代表的な磨崖仏像として評価されている。この磨崖仏のある場所にかつて妙吉祥庵があったため、文殊菩薩を指す妙吉祥と呼ばれているが、仏像の相好と、来迎印を結んだ手印などから見て、阿弥陀如来であることは明らかである。

アリランを主題とした作品を発表したときから、すでに蓮や曼荼羅のような仏教的な特徴が現れる仕事をしたことがあり、2001年の個展では、瞑想にふける作家自身の姿を紙で鋳造した彫刻を通して仏教への関心を見せた申璋湜が、仏像を描いたのは妙吉祥が初めてではないかと思う。しかし、画面のなかに内金剛を訪れた観光客をともに描き入れることで、この作品は、仏像それ自体を主題としたものというよりも、仏像のある風景を実景として描いたと見るのが妥当である。そんな彼が、今回は意を決して仏像を描いている。それも、慶州・三花嶺で発掘された弥勒三尊仏のうち、子どもの天真爛漫な微笑を浮かべている右脇侍菩薩像から、国宝83号の菩薩半跏思惟像、慶州・南山の神仙庵の磨崖菩薩半跏像、南山・弥勒谷の石造如来坐像など、我が国の仏像はもちろん、中国・麦積山石窟の菩薩像と、パキスタンのガンダーラ遺跡から出土した仏像に至るまで、彼が今回描いた仏像は、多様な地域と時代を網羅している。ところが、彼の作品のなかに、我が国の仏教彫刻を代表する石窟庵の本尊仏は見えない。その理由は、この展示の主題である三昧に集中して、三昧の状態をよく見せる仏像に注目したからである。

三昧は、古代インドの文字であるサンスクリット語のサマーディ(samādhi)を音訳したものだが、その意味に従って、定(定)、心一境性(心一境性)、あるいは一心不乱(一心不乱)などと翻訳されもする。しかしこれは、何よりも釈迦牟尼の修行を含意した概念であり、特に『月燈三昧経(月燈三昧経)』で、月光童子(月光童子)の質問に対して釈迦牟尼仏陀が説かれた「一切諸法体性平等無戯論三昧(一切諸法體性平等無戱論三昧)」は、三昧の境地をよく見せるものだといえる。釈迦牟尼は三昧を修行して悟りに至り、三昧に入れば、すべての存在は実体がなく幻想にすぎないという事実を見抜けると説いたのである。

出家以前から、ゴータマ菩薩は禅定修行をしたと伝えられる。出家の後には、アーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタのようなバラモンの修行者を通して、無所有処と非想非非想処に至ったが、それでは真正な悟りに至れないことを悟り、極端な苦行をしたのち、菩提樹の下で深い瞑想に入り、ついに成道したので、三昧こそ、自我を超越して諸法無我(諸法無我)の境地に至る道であったことがわかる。だから申璋湜は、極めて深い禅定(禅定)に入った仏菩薩を刻んだ仏像を再び描くことで、その三昧の境地に近づこうとしている。

路上の修行者

いつか申璋湜は、自らについて「私の人生において50代は、路上の修行者だ」と語ったことがある。私としては、彼が宗教的な発心で自らを修行者と規定したのではないと思う。それは、彼が「芸術家の道もまた修行者の道であり、絵もまた修行の道具だという思いがする。何を探して、世をあれほど巡り、古今東西をさまよったのか。わずかな光であれ表現し出せたなら、と思う。私は絵で『希望のアリラン』を歌いたい」と語った言葉を通しても確認できる。彼の言う修行者は、「道を探す人」の別の表現だろう。

彼は数多くの道を歩いた。そのうち、ラサからカトマンズに至るチベットの旅と、二度にわたるインドの旅、そして2011年に西安を出発し、河西回廊を過ぎてパミール高原を越え、ガンダーラ地域に至るシルクロードの巡礼は、彼の心のなかに位置していた修行者についての思いを、いっそう深く刻みつける契機となった。この旅を通して、彼は真正な路上の修行者である釈迦牟尼と出会った。釈迦牟尼こそ、道に生まれ、道のある森で成道し、無数の道を巡りながら慈悲によって衆生を済度し、道で涅槃した方ではないか。多くの仏典のうち、「路上の修行者」について見せるものが、『華厳経』の「入法界品(立法界品)」だろう。入法界品の修行者であり求道者である善財(善財)童子は、教えを得るために、上には悟りを求め下には衆生を救済する誓願(誓願)の実践者である菩薩だけを探し出したのではなかった。彼が出会った53人の善知識には、菩薩、比丘、比丘尼、女性信徒はもちろん、仏教で外道として排斥してきたバラモン、出家者、仙人、神を含めて、王、長者、医師、船頭、夫人などの俗人と、少年、少女、さらには売春婦として知られる女性もいた。このように仏教は、求道行の道の上で無数の人々に出会え、彼らを通して道に至れることを悟らせる。主体と客体を分けず、我執(我執)と法執(法執)からの自由を追求する仏教のこうした開放性と革新性が、申璋湜をして道を歩ませた縁起(縁起)だろう。

申璋湜が歩いた道は、新羅から唐へ留学した慧超(慧超)が、求法のために歩いた道だった。その前には、法顕(法顕)と玄奘(玄奘)がその道を行った。そのほかにも、南北朝時代に中国へ留学した高句麗の僧侶・僧朗(僧朗)と曇徵(曇徵)、百済の謙益(謙益)と慧怱(慧怱)、新羅の阿離耶跋摩(阿離耶跋摩)なども、朝鮮半島から出発して中国へ行き、唐の都・長安を出発した阿離耶跋摩は、インドの仏教聖地を巡礼し、ナーランダーで律蔵と論蔵を研究したが、新羅に戻れず、ナーランダーで入寂したという。今日でこそ、旅行プログラムもあり交通手段が発達して、昔の求法僧のように命がけで道を歩かねばならないわけではないが、申璋湜は、彼らがすでに通り過ぎた道を巡りながら、釈迦牟尼はもちろん、鳩摩羅什(鳩摩羅什)、摩羅難陀(摩羅難陀)などの先人たちと出会えた。こうした経験が、彼をして仏像を描かせたのである。

宇宙空間に遍在する仏性(仏性)

ところで、彼はなぜ、よりによって仏像を描くのだろうか。それも、すでによく知られた文化遺産であり礼拝物である仏像に、これほど執着するのだろうか。仏像が出現したときから、仏陀の超越性を強調するために、すでに「32相80種好」という規範が適用されたが、この規範は、礼拝対象としての仏像を制作するとき、必ず守らねばならない。また、仏の聖なる相好は、誰もがむやみに作るものではないので、至極の信仰心と、修行者の清浄な心で制作せねばならない。しかし、申璋湜が描いた仏像は、明らかに礼拝対象ではない。仏像を描くことは、芸術家として彼が心のなかに抱いてきた、仏陀へ向けた敬虔な畏敬の念(畏敬心)が外に顕れたものにすぎない。それでもなお、疑問は残る。

『大般涅槃経(大般涅槃経)』は、釈迦牟尼仏陀が涅槃したとき、その遺体をどう収めるかについて問うアーナンダに、次のように答えたと伝える。

「アーナンダよ、そなたたちは如来の体を収めることには関心を置くな。アーナンダよ、そなたたちは根本に努め、根本に没頭せよ。根本に放逸せず、勤勉に、自ら励みながらとどまれ。アーナンダよ、如来に清浄な心を持つクシャトリヤの賢者と、長者の賢者が、如来の体を収めるだろう」

臨終のときが近づくと、釈迦牟尼は「比丘たちよ、形成されたものは消滅するのが理である。放逸せず、熱心に精進せよ」という最後の遺訓を最後に、般涅槃に入った。ついに釈迦牟尼仏陀がクシナガラの二本の沙羅樹の下で涅槃すると、弟子たちは仏陀の遺体を花で飾り、一週間のあいだ安置した。仏陀の涅槃の知らせを聞いて、葬儀の場へ急いで来ていたマハーカーシャパ(Maha Kasyapa)を待っていた弟子たちは、一週間が過ぎた後、仏陀の遺体をマクタバンダナ(Makutabandhana)寺院へ移した。マハーカーシャパが到着すると、彼の指揮のもと、弟子たちは仏陀の遺体を、インドの伝統的な葬礼の儀式に従って火葬し、舎利を収めた。釈迦牟尼の涅槃を悲しむことも、遺体を収めることにも関心を傾けるなという最後の教えにもかかわらず、各地から来た八人の王と長者、弟子たちは、その舎利を分け取って、それぞれストゥーパを建て、そのなかに舎利を安置した。まさにこの瞬間に、仏教美術も始まったといえる。

その後、マウリヤ(Maurya)王朝のアショーカ(Ashoka)王は、釈迦牟尼仏陀の舎利を再び収めて、インド全域に八万四千のストゥーパを建てたという。しかし、しばらくの間、仏陀の形象を刻んだ仏像の代わりに、車輪(法輪)、仏陀の足跡、菩提樹などで仏陀の存在を象徴した無仏像(Aniconism)の時代を経て、クシャーナ族がインドを支配していた紀元後1世紀頃、マトゥラーとガンダーラ地域で、人間の形をした仏像が現れた。

ヘレニズムとローマ、ペルシャの影響を受けたガンダーラ様式と、インド彫刻の伝統の下に形成されたマトゥラー様式は、それぞれ固有の様式として発展し、異民族が建てたクシャーナ王朝を倒して、再びインド人によって樹立されたグプタ王朝に至って、もう一度、飛躍的な発展期を迎えた。釈迦牟尼が成道した後、梵天の勧請(勧請)で初めての説法をしたサールナートの博物館には、グプタ時代である5世紀頃に制作されたサールナート様式の、美しく優雅な仏像がある。もちろん、すでに仏教は、アショーカ王の専制的な布教政策によって、インド全域はもちろん、スリランカをはじめ、南方と西アジア、ヘレニズム諸国にまで伝播された。現在のアフガニスタン地域からインドへ侵入したクシャーナ人も、仏教に改宗した後、格別に仏教を信仰し、カニシカ王の大々的な護法、布教政策に従って、シルクロードに沿って中国へ伝来した。

記録上、我が国が仏教を受け入れたのは、高句麗・小獣林王2年(372年)で、前秦(前秦)の王である苻堅(苻堅)が、使臣とともに僧侶・順道(順道)を送ったときからだった。このとき順道が仏経と仏像を持ってきたというので、彼を通して仏像が我が国に伝来したといえる。もちろん、『三国史記』や『三国遺事』の仏教伝来説は、支配階級による公式の受容を記録したものなので、民間ではすでにその前から仏教を受け入れていただろう。枕流王1年(384年)には、インドの僧・摩羅難陀が、東晋(東晋)を経て百済に来て、仏教を伝えた。新羅もまた、法興王のとき、異次頓の殉教を経て、苦労して仏教を受け入れはしたが、徐羅伐に伽藍と塔婆が雁のように多かったという記録から確認できるように、速い時間のうちに仏教を国家宗教として確立し、皇龍寺、芬皇寺のような大きな寺院を建てた。その後、高麗時代まで、我が国は仏教を信仰としてだけでなく統治理念とし、無数に多くの伽藍、仏像、塔を造成し、仏経を写経(写経)し、仏画を描いた。

こうした文化遺産が、申璋湜の作品においてモチーフであり主題として現れている。しかし、ルンビニーから前正覚山、ブッダガヤー、サールナート、王舎城、祇園精舎、竹林精舎、大園精舎、クシナガラ、ナーランダー遺跡とともに、サーンチー大塔、アジャンター、エローラ石窟などを巡り、さまざまな地域の博物館で仏像を親しく拝した彼は、ひとり韓国の仏像にとどまらず、ガンダーラとマトゥラー様式の仏像、グプタ時代のサールナート様式の仏像のうち、三昧の境地の仏像を選んで、それを再び自らの絵画のなかに再現している。

ところで、もし彼が単純にこれらの仏像を再現することだけにとどまっていたなら、何の意味があっただろうか。すでに存在するものを再び模倣することは、プラトンが『国家論』で語ったイデアの模倣である現象界を模倣する画家と、何が異なるところがあるか。この問題を解決するために、彼は、宇宙に遍在する仏性(仏性)を想像した。サールナートで釈迦牟尼が行った初めての説法を表した初転法輪印を結んでいるが、深い三昧の相好を見せるガンダーラ仏像の背景に、朝鮮初期の天体図である「天象列次分野之図刻石(天象列次分野之圖刻石)」を描いておき、その左右に、龍珠寺(龍珠寺)の梵鐘の天衣をなびかせて昇天している飛天像を配置した作品を例に挙げてみよう。左右の二つの飛天が、釈迦牟尼の初転法輪、すなわち慈悲の言葉を宇宙空間へ伝達する形であり、これこそ、ユビキタス(Ubiquitous)の視覚的な具現だといえるだろう。

このように宇宙空間に遍在する仏性は、楕円形の星雲(星雲)の真ん中に仏頭を配置した作品や、三面画形式の作品で、いっそう劇的に高揚される。画面を三つに分け、左右に聖徳大王神鐘の軽やかな飛天像を描き、その中央に、無念無想に至った解脱の境地と、衆生済度の念願がにじむ奥妙な微笑を浮かべた国宝83号の菩薩半跏思惟像を半身で描いておいた作品は、無数の星座で縫われた宇宙空間のブラックホールのような深い深淵から、菩薩がふと突出しているかのような構造を見せる。

こうした意味付与に劣らず、彼の作品において絵画的な考慮も重要な部分を占める。彼は、自らが直に見た仏像の実在性を顕すために、形態を変形したり歪曲したりしないだけでなく、三花嶺の弥勒三尊仏の脇侍菩薩を描いたことに見られるように、花崗石の質感が感じられるよう、表面に紙の粥を塗り、陰影を表現した。それで、仏像の花崗石の質感は強調されているが、平面的で線的に表現した飛天と、版画から切り取ったろうそくを貼り付けて、再現と表現、立体と平面、具象と抽象が調和的に共存する画面を具現しているのである。こうした点は、麦積山石窟の北魏代に造成された仏像を、互いに向かい合わせに配置した作品でも確認できる。まるでデカルコマニーしたように、互いの姿を投影しているこの作品は、その内容において仏教の不二(不二)の思想を思い起こさせるだけでなく、画面の空間感を通して、形象が宇宙空間へ溶け込む視覚的な効果を収めている。それで、画面の中央へ行くほど形象は消え、ほの暗く抽象的な光の波動が波長を起こしながら中心へ吸い込まれていったり、あるいは音の波動が外へ響き渡ったりする、視聴覚的な空間を感じられる。

サールナートから南山へ、再び自己へ

自ら路上の修行者になることを願ったように、申璋湜は旅を好む。彼にとって旅は、単に日常の軛から抜け出して再充電のための休止(休止)の時間であったり、熱心に働いた自らに与える報償(報償)であったりするのではない。彼は何かを探す人であり、その対象が浮かべば、ずっと没入するために道を発つ。彼はサーンチー大塔で、無仏像時代の釈迦牟尼仏が菩提樹や足跡、法輪で表現されたものを発見し、タキシラ博物館で、ヘレニズムとローマ美術が仏教と習合して現れたガンダーラ仏像を発見した。サールナート博物館では、5世紀のインド仏教美術の傑作と出会い、タクラマカン砂漠を越えるときには、この道で死んでいった無数に多くの求法僧の苦行とも出会った。タリバンが出没するかもしれないガンダーラ地域のギルギットで磨崖仏を見たとき、彼は何を思っただろうか。我々がともにした旅は、決して苦行ではなかった。むしろ、シルクロードについてのロマンチックな幻想を満たしてくれる楽しい時間だったかもしれない。

シルクロードから戻った後、彼は一人で慶州・南山へ行った。瑞山磨崖仏のような浮彫の場合、光の量と角度に従って異なって見えるという事実に注目し、時間を違えてそこを訪ねたりもした。ひとり仏像だけではない。彼は、自らがしている仕事の典拠(典拠)を求めて、熱心に仏教の勉強にも邁進している。それで、最近の彼の会話の主題は、すっかり仏教で満ちている。金剛山の旅が開かれる前、金剛山を描いたときもそうだった。金剛山に関連した多くの資料を集め、調査、研究しながら、それを画面の上に再構成した。こうした情熱は、金剛山の開放後、数多くの現地踏査を通して、彼を「金剛山画家」にする動力でもあった。

情熱が過度になれば執着になりうるが、仏像を描くことも、ある願力(願力)が作用したからだろう。それが何だろうか。彼は、信仰心に引かれて礼拝の対象である仏像を描いているのではない。あるいは、仏像自体ではなく、それに宿っている深い思惟の正体が何かを知るために、仏像を方便としたのかもしれない。まるでデカルト(René Descartes)がそうしたように、彼は、何を探すべきか苦悩している自らについては知っている。こうした知への欲求という動機が作用したため、彼の作品は、直観的でありながら同時に分析的な特徴を持っている。

アリランから金剛山、そして仏像に至るまで、申璋湜の絵のなかに葛藤と対立はない。彼自ら語ったように、彼が探すものは「希望のアリラン」である。芸術とは、そういうものではないだろうか。明確に断言できないが、ぼんやりと浮かぶ光のようなものを探していくこと。それに到達するために、対象をあるがままに見ることもでき(ヴィパッサナー)、集中することもでき(サティ)、それすらも離れて、極めて無念無想な状態(サマーディ)に入ることもできる。芸術の道と禅定の道は異なる。その違いが芸術を豊かにする要因だが、現実の苦痛を超えて究極へ行こうとすることには、相通じる部分がある。般若波羅蜜は、仏教にだけあるのではなく、芸術にも必要なものではないだろうか。

#三昧 #仏像 #道の上の修行者

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