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テキスト 評論 2003

〈十年の憧れ、金剛山〉 — キム・ジュンギ評論 (2003年頃)

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Exhibition
[展覧会ポスター] 〈10年の憧れ、金剛山〉 ポスター
〈10年の憧れ、金剛山〉
Dates
2003-11-17 — 2003-12-24
Venue
サビナ美術館(ソウル)

要約

美術評論家 キム・ジュンギの申璋湜〈十年の憧れ、金剛山〉評論。1988-1989年の統一運動の激烈な情緒から、1998年の金剛山観光開始・2003年の陸路観光開始に至る分断の現実の激変期を背景に置き、申璋湜が1993年に初めて金剛山を描き始めて以来、五度の個展を経て観念山水から実景山水へと移っていった10年の変遷を読み解く。観念的な視覚記号としての1990年代半ばの作業と、直接の写生を基にした2003年の新作の絵画的変化(「油絵筆の皴法」・撒きの節制・点描と線描の強化など)を分析し、「絵画的目標に圧倒されて記意を留保していた」初期から「実体と象徴の合一を通した真正性の獲得」段階への移行を評する。

Info
出典
作家ブログ
Author
キム・ジュンギ(美術評論家)

本文

〈十年の憧れ、金剛山〉

キム・ジュンギ(美術評論家) · 作家ブログ · 2003

十年あれば山河も変わるという。十回ほど年が変われば、歳月の垢がついて、変わるものと変わらないものの境界が現れるという言葉である。芸術家が一つの主題を持って、山河も変わるという十年の歳月の間、絶えず掘り下げるというのは、その歳月の長さに見合うだけの価値を置く切迫さがあるからだろう。申璋湜個人の作品世界の脈絡のなかで見れば、今回の展示は、この十年間、金剛山を描いてきた彼の変遷史を一望する場であるという点で、いつもとは異なる格別な意味を持っている。作家の四十前後の作品世界を見分けて、太い痕跡を読み取る場なのである。

申璋湜の金剛山の絵の十年の変遷を振り返ることは、個人の芸術的な旅程を見つめること以上の格別な意味を持っている。禁断の地であった金剛山の海路が開かれてからも、すでに五年が過ぎた。いまや陸路までつながったので、こうした激変の過程は、これからいっそう時間差を縮めながら我々のそばに近づいてくるだろう。そういう意味で、十年前から金剛山を描き始めた申璋湜は、芸術家の重要な徳目の一つである予知力を持った作家として挙げるに値する。金剛山の絵画的な脈絡だけでなく、その文化政治的な重みに照らしてみれば、冷厳な分断の現実と直面したこの時代の画家が描き出した「十年の郷愁」は、その解釈の地平がはるかに広く開かれうる。

振り返ってみれば、21世紀初頭の今、金剛山を描くという事実の裏に敷かれた韓国現代史の暗鬱さは、想像を超える暴力だった。特に分断状況で起こった非常識と抑圧が、どれ一つや二つだっただろうか。その暗さを破っていき始めた1980年代末の統一運動、あるいは南北関係を思い起こしてみると、ただ遠い昔話のようでしかない。1988年と1989年の夏の美しい思い出がある。当時、それぞれ6・10と8・15を契機に統一運動を繰り広げた全大協時代の学生運動は、連臥闘争という方式まで動員して、幅広く統一の議論を呼び起こした。板門店へ向かう道を塞がれた学生たちが、熱いアスファルトの道に人間の鎖をなして横たわる、並々ならぬパフォーマンスが繰り広げられた。文益煥、イム・スギョンらの訪北へと続いた一連の統一運動は、統一の議論自体を不穏視した抑圧的な状況を破るのに大きな役割を果たした。今日、金剛山の陸路観光や数百名の平壌訪問団のニュースに接している現実の前で、こうしたことを振り返って考えてみると、別の国の話をしているような感じがする。

アスファルトに横たわって、一人ずつ順に人間の鎖の一つの輪が引きちぎられていく姿を思い浮かべると、それはむしろロマンチックでさえある。あの時代についてのさまざまな記憶のうち、たいへん印象的に残っているものがある。数万人が、それこそスタイリッシュに腕を突き出しながら「行こう北へ、来たれ南へ、会おう板門店で」などのスローガンを叫んだり、悲壮に一糸乱れず闘争歌を歌い、決然と統一を語ったりした時だった。当時、女子高生の憧れの的だったイム・ジョンソク全大協議長の華麗な大衆演説や、今は映画俳優をしているキム・ジュンギ学兄の熱い涙は、あの時代の情緒を代弁する記号である。こうした激烈で重々しい雰囲気とはずいぶん異なり、祭りを繰り広げるように童心に返って愉快に歌った歌がある。「金剛山訪ねてゆこう一万二千峰。見るほどに美しく不思議だ。季節ごとに美しい衣に着替える山。名も美しく金剛というのだ、金剛というのだ」。漠然と遠いばかりだった統一の話を親しく解きほぐす、一種の大衆親和的なイベントだった。このように悲壮さのなかでも一抹のロマンチックな感性として根を下ろしていた、金剛山を訪ねることが、いまや心さえ決めればいつでも訪ねられる観光商品として我々の前に近づいている。

申璋湜の金剛山の絵は、このように過去とはまったく異なる次元へと再編されている政治社会的な変動の過程を貫いている。こうした点で、申璋湜を読む焦点を、絵画的な関心だけでなく「社会的な脈絡と連繋した美術の位置づけ」という観点へと広げてみたい。そもそも彼の金剛山の絵は、絵画的な旅程の延長線上から出たものだった。この点は、十年が過ぎた今も依然として有効に彼の作品世界を貫く重大な事案である。生動感と神明という無形の価値を盛り込む一つのテキストとしての風景という点で、それは金剛山であってもよく、白頭山や智異山、漢拏山であっても差し支えなかった。そう考えてみると、今言及したこれらの山は、すでに多くの芸術家の手を経て、歴史的で政治的な風景として位置づけられてきたという点を、改めて想起する必要があるだろう。

申璋湜は、伝統的な価値を象徴する素材を中心に展開していた絵画的な航路を、金剛山へと整理していった。十年前に始まったこの仕事は、絵画的価値としての金剛山の絵についての研究を伴うものだった。当時の絵は、観念的な山水だといっても差し支えないほど、実体と形象の間の関連性が希薄だったので、周囲の訝しげな視線を受けたであろう。こうした点を超えようとする作家の努力は、金剛山の古い絵についての研究や写真資料の収集などとして現れたが、現場を体験していない風景画とは、どうしても胸のなかの絵ではなく頭のなかの絵である可能性が高かった。体験を通した感性的な経験を解きほぐせない状況であれば、当然、自己指示的なモダニズム美術の言明に従って絵画性を高めるいくつかの装置が必要だっただろう。実際に、彼の1990年代半ばの作品には、こうした推定を例示する装置が適切に共存している。当時の金剛山の絵は、ろうそくや格子模様が描かれた左右対称の真ん中に位置する、もう一つの視覚装置物にすぎなかった。まるごと山の風景だけを盛り込んだものだとしても、画面に付着したボルト・ナットや十字模様の反復する記号と共存しており、自由奔放な撒き技法のなかに隠された風景だった。ぼんやりと移ろう色面と、丸みを帯びた輪郭の金剛山の絵は、具体性を盛り込まない視覚記号それ自体だった。

彼が金剛山を最初に描いたのは1993年であり、1998年の金剛山観光が始まる前まで、五度の個展を金剛山を主題に開いた。このうち1996年の個展の図録に載せた、煙草をくわえて遠い山を眺める作家の白黒写真は、観念山水と真景山水の間の明確な分かれ道に立っている自らの位置を、淡々と見せている。分断状況を見せる休戦ラインの鉄柵の前に立っている一人の画家の姿は、まるで早晩あの鉄柵線を越えて金剛山へ行くことを念願し、あるいは予感したかのような雰囲気を込めている。

要するに、当時の申璋湜の金剛山は、絵画的な目標に圧倒されて記号内容(シニフィエ)を保留した状態でしかありえなかったが、再現的な絵画の領域にとどまらず、自閉的な形式主義モダニズムからの距離取りを試みていた。言い換えれば、金剛山を描くが、絵画的な装置のなかに埋め込んだ金剛山へと転用しながらも、その装置に呑み込まれないという点で、以後の仕事を、より積極的な意味での金剛山の絵へと引っ張っていく可能性を含んでいたのである。

この時期の金剛山の絵について、美術評論家のシム・サンヨンは、申璋湜式の金剛山の絵が、金剛山の具体性を獲得することよりも、平面への復帰により多くの関心を持っていると読み取った。このように観念的な記号としての素材の一つだった金剛山の意味は、時事評論家のユ・シミンが大胆に言及した「申璋湜にとって金剛山は美学的な疎通の道具にすぎない」という言葉のなかにも明確に現れている。しかし、それはそう簡単な問題ではない。芸術も人がすることなので、うごめき生動するものだからである。私が見るに、申璋湜と金剛山は、観念的な視覚記号以上のものへと転換しながら、次第に実体との具体的な結合の度合いを高めてきたようだ。

金剛山訪問以後の金剛山の絵は、いろいろな面でそれ以前と異なる。まず、観念山水を真景山水へと転換できるようになったという点である。最近の仕事は、作家が直に金剛山を訪ねて写生をし、写真を残してきた結果物をもとに制作した金剛山の真景の仕事なのである。ここでいう「観念から真景への転換」は、「実景と絵の間の合一点」を見出す過程である。先に述べたが、彼は実景以前から金剛山を描いてきながら、自分なりの独特の造形語法を作ってきたが、これが真景絵画と接点をなしながら、新たな境地の美的な専有の過程へとつながっている。彼は金剛山を一つの象徴として借用しながら金剛山の絵を始め、金剛山を通して希望と生動感を語ってきた。彼は金剛山の絵を描く以前から、アリラン連作を通して、伝統の価値と美感を現代美術に接ぎ木しようとする努力を持続した。彼の伝統の再解釈は、光化門、勤政殿や青紗提灯のイメージなどに持続的に現れた。そういう点で、造形的な方法の変奏を多様に駆使していた彼にとって、金剛山は単なる風景以上のものだっただろう。

新作に見られる絵画的な変化は、何よりも申璋湜特有の撒き技法を減らし、筆致の妙味を生かしていくという点にある。画面を満たした形象の上に撒き、再び形象をとらえた後、再び撒きを反復した典型的な描き方に比べ、最近作は、岩や木などを描き出した筆致それ自体の味を生かしながら、撒きを抑制したり、あるいはまったく加えなかったりした絵もある。まさに「油絵筆皴法」と名づけうる申璋湜の筆致の実験なのである。紙と墨と毛筆を持って一筆揮之していた昔の絵の方式を思い浮かべると、キャンバスの上に韓紙を貼り、その上にアクリル絵具でこわばった油絵筆の筆致を残したこれらの絵は、格別な関心の対象でありうる。水彩画のように浅く描いたこれらの風景画は、金剛山を出入りしながら実景写生をした痕跡がそっくり盛り込まれた結果に見える。発色の強い青色顔料で描いた輪郭線と点描は、撒きに比肩される特色を持っている。新作が伝統的な水墨彩色画の長所を一部引き出しているという点もまた、たいへん興味深い。脈の流れに依拠して山の形象を描き出し、谷を余白の方法で空けておく、写実的な描き方としての有効性を引き出したのである。

色面を中心に分割されていた画面が、はるかに写実的な描き方に近づいたということもまた、以前と異なる点である。色面の要素よりも、点と線の要素が多くなったのである。撒き方式に比べて点描と線描を生かしておいたのは、観念で金剛山を描きながら観念性の裏面を自己指示的な絵画性で補完しようとした以前のものと、確実に弁別される点がある。

自らが描いている対象物が、自ら経験した世界だという事実は、その生き生きとした経験をもとにした自信あふれる描き方へとつながった。こうした点は、〈金剛山 万物相 - 1998.11.21〉という5メートルの記念碑的な大作で完然と現れる。実体に根拠を置いて描いた絵は、このように画家の手つきを以前とは異なる次元へと導きもする。4.5メートルに達する大きな絵〈金剛山から望む白頭大幹〉の場合、広角レンズでも捉えられない大観山水を、数枚の写真を合成してコンピューターで補正した後、それを下絵に活用した点を見れば、作家は形態の歪曲を最大限減らし、写実的な表現に基づいて真景に近づこうとしているように見える。この点は逆に、作家が観察した金剛山と白頭大幹という対象物への視覚的な関心とともに、この地の気を読み取ろうとする真摯な省察を盛り込んでいるという傍証でもある。絵の対象である山自体の姿をどのように画面の上へ引き入れるかについての関心は、結局、観念的な記号あるいは素材としての金剛山を、実景の金剛山に代替したときに現れざるをえない現象だろう。

金剛山を媒介に、生動する自然と人を語ること、さらには分断状況をはじめとする現実を具体的に盛り込む当代性と現場性の獲得の過程は、申璋湜の絵が手放すことのできない人並み外れた可能性である。これは、象徴と実体の合一を通して、生と芸術を貫く真正性を獲得する仕事である。自分なりの独特の造形語法と、金剛山という実体の出会いは、また別の次元の芸術的な完熟を引き出している。申璋湜は金剛山を一つの象徴として接近し、その実体に出会った。山を描くが、山をそのまま移し描くいわゆる再現山水の仕事の次元を超えることが、「現代美術家」申璋湜の最大の課題かもしれない。しかし彼は、その枠を抜け出して、金剛山の実体を読み取ることへと進もうとした。

芸術は生の痕跡ではなかったか。芸術家的な生の副産物であり証拠物として、芸術作品は、いつまでもその視覚的な物を作り出した作家の存在と運命をともにする。この十年間、申璋湜は、革新的な造形実験を通して作家としての存在を顕す方式よりも、自らの造形語法が盛り込まれたよい器を作っておき、その器に合う清らかな水を求めて、絶えず一つの道を邁進してきた。その道について作家は「小さな真正性であれあるなら、恥ずかしさが少ないようだ」という言葉を通して、迂回的に表現している。20世紀を号令してきた芸術の自律性は、いまやそれだけでは独存できない状況に至った。作家・申璋湜の仕事は、分断の現実の下でも新たな出会いと希望を語る疎通の美学として地平を広げてきたという点で、より広い前途を確固として開いておいたわけである。

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