一民美術館〈夢遊金剛 — 絵で見る金剛山300年展〉新聞報道まとめ (1999)
要約
1999年7月に一民美術館で開かれた〈夢遊金剛 — 絵で見る金剛山300年展〉グループ展を扱った新聞報道写真のまとめ。申璋湜作家が出品作家の一人として参加し、本文に〈金剛山-生命力〉(1999、728×227cm、キャンバスに韓紙アクリル)の作品が言及される。
Coverage (1)
- 作家ブログ 1999-07
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関連アーカイブ
- 複合 作家ノート 1999-05 · 申璋湜(画家、国民大学校教授)
文化日報〈金剛山エッセイ — 雄大な姿…キャンバスが足りず…〉 — 申璋湜作家 寄稿 (1999)
昨年11月、金剛山行きの初めての船に乗ることで、金剛山への郷愁と渇きは少しは癒えたが、その旅から戻った後、私は熱病を患うように新たな渇きを感じた。あれほど懐かしんでいた金剛山をそこに残し、再び夜の船に乗って下りながら、白頭大幹に長く横たわる非武装地帯(DMZ)の灯りを見たのである。
夜だったので、DMZの夜間探照灯の灯りは、山の輪郭に沿って長く続いていた。その灯りの南には、点々と灯りが連続して見え、その北には黒い静寂。その闇と静寂のなかに、金剛山はあったのである。我が国の分断状況をこのように視覚的に、具体的に眺めると、複雑な思いを禁じえなかった。そして家に戻った後、描いてきたスケッチとスライドを検討しながら、金剛山を訪れたら狂ったように金剛山の絵を描くだろうという期待とは異なり、絵を描くことができなかった。なぜだろうか。金剛山という、あまりに美しく荘厳な山それ自体と、微弱な私の絵が比較できなかっただけでなく、その気に圧倒されて描くことができなかった。
昔の絵と写真と資料と想像のなかで描かれていた金剛山を直に見た後に描こうとすると、絵画の根本的な問いである内容と形式の合一について、再び執着するようになるのだった。これまで描いてきた私の金剛山の絵の形式は適切なのか。金剛山を直に見ながら、なぜ18世紀の謙齋先生がこのように描いたのか、理解できた。とすれば、21世紀を望む今日の時点で、私の金剛山の絵は、どのように私の心性と情緒を金剛山の実体に接神させることができるのか。
そして、そうした表現の正当性は、どこに根拠を置くべきなのか……。複雑微妙な悩みの果てを見出すことができなかった。そして、走馬看山のように急いで見た金剛山への郷愁が、再び切なく現れたのである。金剛山にまた行かねば。いまやいつでも行けるではないか。私の絵の形式は、その新しさは、再びそこに立ってこそ結論が出るだろう。キムチが味を出すには熟成する時間が必要なように、私の金剛山の絵もまた、そうした時間の流れのなかで当然熟成するという思いが、私の心のなかに起こった。いつまた訪れようか。皆骨を見たので、春になれば金剛をまた見よう。夏になれば蓬萊も、秋になれば楓嶽も見よう。金剛の四季をすべて経験すれば、そうするなかで、たまさか運がよければ、私の魂のなかに金剛山の絵についての新たな霊感が現れないだろうか。見ずに描くときの切なさと未尽を思いながら、このように可能なかぎり見ようと努力すれば、何かが掴めるのではないか。
こうした状況のなか、一民美術館が企画した〈再び訪れた金剛山展〉の提案を受けると、その喜びは言いようがなかった。私個人の関心からだけでなく、美術館の企画のなかで金剛を再び見られるようになったのである。今回は、数々の画家とともに金剛を感じ、我々の美術の新たな可能性を討論し、絵で競い、励まし合えると思うと、新たな力が湧いた。
4月16日の夕方、東海港を発って金剛山へ再び向かった。夕暮れの壮観が、白頭大幹の雄渾な姿と調和して、我が国土の美しさをいっそう輝かせてくれた。絵の方向を、今回の機会にはいっそう明確に掴めるか、一枚のドローイングでもできることを願った。雄壮で華麗で千変万化する金剛山を、絵画で調和的に表現し出す霊感を得られることを期待しながら……。
長箭港へ入港する瞬間を逃すまいと、うたた寝をした後、船べりに立つと、去る冬の夜明けに入港したときとは異なり、明るい朝の陽射しのなかで姿を現す金剛山が、我々が再び出会うことを祝福するかのように感じられた。山は依然としてそこにあった。
入港の過程や入北の過程など、すべてが初めて来たときよりも整理されており、体系化していた。温井里を経て、寒霞渓の美人松の間を走って万相亭にバスが着いた後、万物相の全景に出会うために三仙岩のほうへ先に走り出た。春の気のなかの万物相は、生気と溌剌さで我々を迎えた。三仙岩、鬼面岩、節婦岩、安心台、望仗泉を過ぎて天仙台を一息に登ると、春の生気は万物相全体を包み込み、温かい陽射しは、スケッチをする間ずっと、再び訪れた私を祝福しているようだった。手が動いて絵が成るのは、私の意志ではなく、この山が与える気なのだなと思いながら、数十枚のスケッチを描いていった。翌日、玉流洞へ向かう道の、チャント松林の道の美人松は、淡い青の水気を含んだ生動感で我々を迎え、連珠潭の清らかな水は、翡翠色の神秘さを加えていた。
天へ飛び上がるような飛龍瀑布と、雄壮な水流を注ぎ出している九龍瀑布は、去る冬の凍っていた姿と異なり、水量が増して、その生動感が絶頂をなしていた。水の流れ、その音、神秘的な色、春の匂い、咲き出る花、水の上る木、雄壮な岩、このすべてが一つの生命力で交響詩を作り出していた。夢遊金剛、これ以上何の言葉が必要だろうか。その気のなかで夢中で絵を描いていると、いつ時間が過ぎたのか、惜しくも観光のリーダーは下山を急かしていた。
金剛山の絵は、高麗のノ・ヨンの仏画〈地蔵菩薩図〉から、謙齋・鄭敾の〈金剛全図〉、金弘道の画帖だけでなく、多くの民画、そして日帝時代に純宗の命を受けて金剛山のスケッチ旅行の後に描いた海岡・金圭鎮の〈金剛山図〉〈叢石亭図〉、小亭・卞寛植先生の〈三仙岩〉など、その数を数えきれぬほど多かった。特に金剛山の絵は、謙齋・鄭敾から、我が山河の美しさを実景として写生し出しながら我々の美学が立てられた、我々の絵画史の聖所なのである。我々のものを探し出し、我々の時代の我々の絵への霊感は、この地で探すべきではないだろうか。
ところで分断以後には、南側の作家のうち金剛山を描いた画家がいないので、想像と資料に基づくとしても、金剛山の絵はこの時点で新たに試みられるのがよいのではないかという思いから始めて、93年の個展から98年まで五度の個展を金剛山という主題で発表してきた。実は私は、88年のソウルオリンピック開・閉会式で美術助監督として働いたことが契機となり、これまで我々の情緒を具体化するために民俗的な素材に隠れた造形言語に関心を持ち、青紗提灯、太鼓、銅鑼、旗、景福宮などの素材を〈アリラン〉というテーマで作品活動をしてきた。その後、我が山河のなかに入っている生動感と生命力を、鶏頭、野草、松、北漢山などを素材として絵で表現していたが、どうせなら我々の山のなかでも我々の絵画の聖所である金剛山を描いてみようと単純に思ったのが、私の金剛山の絵の出発だった。金剛山に行かずに金剛山の絵を描くので、心残りな点が一つや二つではなかった。しかし、いつか行けるのではないかという希望は、その絵から消すことができなかった。いまや二度も金剛に出会うと、その生動感と神明が私の絵にも染み込まないだろうか。まだ上八潭や内金剛、叢石亭、新金剛など直接見ていない場所も多いが、我が民族の持つ神明と生命力が、いまや金剛山の絵のなかに可能ではないだろうか。将来には、我が民族の分断状況が克服されて、金剛山が民族の象徴として生まれ変わる時が来ないだろうか。その時には心ゆくまで見るだろう。
〈再び訪れた金剛山展〉では、こうした神明と生命力が私の絵に少しでも表現されればという願いである。性急な心を整えて、少しずつ作っていくだろう。
金剛山は私の金剛山であり、我が民族の金剛山である。私はこんな希望を抱いてみる。次には、南の作家だけでなく北の作家たちも参加して、一緒に金剛山で絵を描き、我々の美術を討論し、ソウルと平壌で発表すれば、我々の象徴をいっそう宝のようにするのではないか。民族共通の情緒で出会うことが可能ではないか。人のいない空っぽの山に出会うのではなく、山とそこの人々とともに出会うとき、喜びはいっそう大きいだろう。
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