三昧
2013 · 117×73 cm · キャンバスに韓紙・アクリル
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- テキスト 評論 2014-06-18 · 申璋湜;崔泰晩(美術評論家)
〈彼の岸へ〉 — 作家ノートと崔泰晩評論 (2014)
彼方の丘は 「アリラン峠」かもしれず、 「金剛山」かもしれず、 「修行の完成、最上、最高に至る三昧」かもしれない。 「pāramitā 波羅蜜」についての私の解釈と行(行)かもしれない。
この丘から彼方の丘へ……
苦痛のこの世から、苦痛のない彼方の彼岸の世界へ、 現実の此岸(此岸)から理想の彼岸(彼岸)へ向かう 「希望のアリラン」である。
— 申璋湜
いつか申璋湜は、自らについて「私の人生において50代は、路上の修行者だ」と語ったことがある。私としては、彼が宗教的な発心で自らを修行者と規定したのではないと思う。それは、彼が「芸術家の道もまた修行者の道であり、絵もまた修行の道具だという思いがする。何を探して、世をあれほど巡り、古今東西をさまよったのか。わずかな光であれ表現し出せたなら、と思う。私は絵で『希望のアリラン』を歌いたい」と語った言葉を通しても確認できる。彼の言う修行者は、「道を探す人」の別の表現だろう。
自ら路上の修行者になることを願ったように、申璋湜は旅を好む。彼にとって旅は、単に日常の軛から抜け出して再充電のための休止(休止)の時間であったり、熱心に働いた自らに与える報償(報償)であったりするのではない。彼は何かを探す人であり、その対象が浮かべば、ずっと没入するために道を発つ。
金剛山の旅が開かれる前、金剛山を描いたときもそうだった。金剛山に関連した多くの資料を集め、調査、研究しながら、それを画面の上に再構成した。こうした情熱は、金剛山の開放後、数多くの現地踏査を通して、彼を「金剛山画家」にする動力でもあった。
情熱が過度になれば執着になりうるが、仏像を描くことも、ある願力(願力)が作用したからだろう。それが何だろうか。彼は、信仰心に引かれて礼拝の対象である仏像を描いているのではない。あるいは、仏像自体ではなく、それに宿っている深い思惟の正体が何かを知るために、仏像を方便としたのかもしれない。
アリランから金剛山、そして仏像に至るまで、申璋湜の絵のなかに葛藤と対立はない。彼自ら語ったように、彼が探すものは「希望のアリラン」である。芸術とは、そういうものではないだろうか。明確に断言できないが、ぼんやりと浮かぶ光のようなものを探していくこと。
— 崔泰晩/美術評論家
- テキスト ニュース 2014-06-25 · 法宝新聞
法宝新聞、申璋湜〈彼の岸へ〉展 報道 (2014)
法宝新聞(2014-06-25 発行、第1250号)が報じた申璋湜作家の〈彼の岸へ〉個展(2014-06-25 ~ 2014-06-29、ノアムギャラリー)。「波羅蜜に対する解釈と行」を主題とした作品が披露される。作家は展示主題「彼の岸へ」について「悟りのあの岸へ渡ることから出てきた」と説明し、アリラン峠・金剛山・三昧についての自己解釈を提示する。美術評論家 崔泰晩は作家の仏像作業について「もしかすると仏像そのものではなく、そこに宿る深い思惟の正体が何かを知るために仏像を方便としたのかもしれない」と分析する。
Coverage (1)
- 法宝新聞 2014-06-25 · ナム・スヨン
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